過去はいつだって唐突に現れる。急変。その言葉に白波百合は体を固める。この休憩室に来る前の自分、その姿もありありと浮かぶ。
話を続けようか。急変として先ず頭にイメージするのは、頭や胸、そしてお腹を押さえて、うずくまるような事だろうか。
テレビの再現ドラマでよくあるやつやな!その後重大な疾患に気がつくという感じの展開があるわな。
そうだね。そのイメージは確かにある。だけどもそう分かりやすいものなのかな。
でも急変にもいろいろ種類はあるっすからね。自分が気が付けるものと気が付けないものもあると思うっす。
ふむ。と山吹薫は足を組み直す。そして白波に並ぶ坪井咲夜と上代葉月もまた両手を組んで考え込んでいる。
そうだな。何にしても知っていれば気が付ける。知らなければ気が付けない。それは確かにある。いざその時に選べる選択肢は多いほうが良い。そして人は不思議なもので痛い場所や不安な場所に手を当てる。例えば患者様が胸に手を当てて痛みを感じているとする。何を考える?
えぇともちろん心臓に関する疾患の発症!っすかね。心筋梗塞だったり狭心症の増悪って事かもしれないっす。えぇと急性冠症候群っすよね?心臓を栄養する冠動脈に病変があってそれが増悪してしまうっす。
うん。最初にそれを考えちゃうよね。特に運動時にも起きやすいから、私たちも気を付けているところだよね。
ふーむ。でもそれだけやろか?他にも例えば強烈な痛みを感じるなら急性大動脈解離や血栓が肺に飛ぶ肺血栓塞栓症何て事も考えられへん?
そうだな。そうやって自分が一番起きたら怖い状態を先ず頭に思い浮かべる。リスクといったものは重篤なものから除外していく事だな。そうする事でお互いに安心だが、過信は禁物だ。
うっす!と白波はノートにその言葉を書き留める。自分は患者様が自分の眼の前で死ぬのが怖い。でもそれはきっと誰でも同じだ。
まぁ胸の痛みは他でもそうだが重篤な身体症状の一つだ。それだけで緊急な治療を要する事もある。そしてその症状の鑑別もまた必要だな。例えば急性大動脈解離では胸の痛みに加えて意識を失いそうになるほどの急激な背中の痛みを伴う。肺血栓塞栓症では肺の血管に血栓が詰まるのだから胸部の痛みに加えて急激な呼吸困難感も生じる。
ふむ。そして急性冠症候群では心臓を栄養する血管が細くなったり詰まったりする訳っすから、胸の痛みや締め付けられる感じがするっすよね。
そしてそれは運動負荷でも出やすいから、特に運動負荷後に心臓の痛みを感じたり息切れを普段から感じるのなら要注意だね。
他にも酷く気持ちが悪くなったり、冷や汗が出たり、何よりも一人で助けが呼べないほど苦しくなるって言うもんなぁ。周りの人に助けを求める以外にも周りの人が気が付かないとあかんな!
白波は過去の自分のプリセプターの姿を思い出す。不健康そうな体つきと人を舐めるように見るその視線は今考えても嫌だと思う。何も教えず指摘だけを受け続けていたし、自分もそれが当たり前だと感じていた。あれほど人を嫌いになったのは初めてだった。
どうした?珍しく考え込んで。ともかく胸の痛みがなぜ起こるのか、それに伴う訴えや症状で鑑別しなければならないが、多くの場合には心臓やそれに付随する重要な血管の障害だ。発症の時点で血圧を保てずにショック状態に陥り意識を失う事もまたある。訴えがある時点で適切な治療が必要になるのだから、すぐに受診を勧めるか病院ならば報告や対応が必要だ。
やっぱり早期発見と治療も必要やな!でもショック状態に陥らんでも、心臓の機能が保てへんで、体が浮腫んだり息切れしやすい心不全の状態にもなるとも思うな。
他にも心臓を血管が栄養できなくなるから、それで不整脈が出やすくなるかもしれないとも思う。
不整脈にも怖いものもあるっす!血を送り出す心室の不整脈、心室細動や心室頻拍が起きるかもしれないっす!
そうだな。そしてその時には起座呼吸、つまりは座ってなんとか呼吸を保つように体は動く。気を付けなければいけないのは、血圧も低下しているから横にして足を上げる。そんな対応をしてしまうと更にショック状態を進める事もあるから要注意だ。寝たまま足を上げると500mlのペットボトル分の水分が肺の方に戻るようなものと言われる。多くの心臓系の急変では心臓から血が出せずにその前にある肺に水が溜まっている状態であるから、余計な水分を肺に戻してしまい呼吸が更に苦しくなる事になる。それでは溺れさせるようなものだと僕は思うね。もちろん状況には寄るけどな。
そして白波は多分自分は恵まれていると思う。先輩と出会えた。最初は嫌味な人だと思ったけれど、先輩とその周りには頼れる人が居る。
そしてその状況に立ち会ったのならば、もしショック状態が疑われる場合には緊急コールを行う。それは病棟でルールは違うから必ず確認しておく。そしてそうでなくてもすぐに看護師と情報を共有して、主治医に報告する。疑われるままにリハビリに連れて行くなどは言語道断だ。
それにはやっぱり知っておかなければあかんわな。病院ではない施設や在宅でもやっぱり病院受診したり、救急車を要請するのも必要や。
だね。ただ様子が変なんです。じゃなくて、例えば『今朝から胸の痛みを訴えていて、冷や汗をかいていて意識が朦朧としています。座ったまま息をして苦しそうです』といった情報も一緒に伝えられると在宅から救急要請だとしてもその後の対応が円滑になり救命に繋がるね!
確かに病院だったら良いっすけど、在宅や施設、そしトレーニング施設での急変は特に早急な対応が必要となるっす!何よりも知っておく事が必要っすね!
だなと山吹は言葉少なくそう答える。だけどもその言葉の裏には多くの想いが隠されている事もまた今では分かる。いつかそれをお話ししてくれたら良いっすけどね。白波はそんな事を考えた。
白波百合のノート 108
・胸の痛みは重要なサイン!すぐに報告や受診の必要性がある。そしてそれを曖昧にしたまま決してリハビリを行わない。
・救急要請を行う時も見られる症状を一緒に報告するとその後の治療が円滑になる時もある。そのためには知っておく事が必要。
・いつか先輩と肩を並べてお話ししたいっす。
【〜目次〜】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【総集編!!】
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
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